人生の大転機

月刊 貴子 on 7月 13th, 2011
 

暑中お見舞い申し上げます。
炎暑の日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
早いもので、梅雨も明け、本格的な夏となりました。
ずいぶん、お久しぶりの月刊貴子となってしまい、楽しみにしてくださっている方々には、
ほんとうに申し訳なく思っております。ごめんなさい。

この数カ月の間に、世間でも私自身の人生にも大きな変化がありました。

3月11日に大震災が起き、気持ちの持って行き場がないまま、不安なる面持ちで日々を過ごし、たくさんの友人たちが日本を離れたり、東京を出ていったり、余震も続く毎日の中で、私自身もどうしようと、思いあぐねていたところ、訃報が入りました。

忘れもしない4月25日、早朝7時前に携帯電話が鳴りました。
朝早い電話にどきっとしながらも、でてみると、静岡の実家の近所の方でした。内容は、母の友人から電話があり、ちょっと家を見に行ってほしいと言われて、門のところに来たところ、新聞が2,3日溜まっているので心配になって、娘である私に電話をしたということでした。ヒヤッとした気持ちになりましが、母は、私に知らせずに数日の旅行に行ったかもしれないという可能性にかけて、とにかく、一度電話を切らせてもらい、母の携帯電話、家の固定電話に電話を入れました。しかしながらどちらも留守電になるだけ・・・・・。私の心臓の鼓動が早くなっていくのが、自分でもわかりました。

その後、近所の方に再度、電話。近所の方に、なんとかして、家の中に入ってほしいと失礼なお願いをしてしまったのですが、こんな場合は親族でないと、鍵を壊して入ることはできないとのことで、静岡南警察署に電話をして、玄関のカギを壊すなり、窓ガラスを割ってもらうなりして、家宅捜査をお願いしました。その後、警察からの電話を待つこと、2,3分。
警察の方からの 『お気の毒ですが・・・・』 で始まった電話のその後は、どんな会話をしたかは思い出せません。

私は自分の感情を、わめくことで発散したことはないのですが、このときばかりは、隣近所に聞こえるぐらいの大声で、泣きわめきました。伴侶が私の身体を支えてくれて、その腕の中でずいぶんと長い間、一瞬の間におきた悲劇に心から叫び声をあげ続けました。わめくことでしか、自分を制することができなかったのです。
とても苦しくつらかった・・・・・。
私が唯一、懸念していたことがとうとう起きてしまいました。すごい悲しみでした。もう急いで実家に帰っても、生きた母に会うことはできません。
ひとしきり、泣きわめいたあと、2,3日分の着替えと黒のワンピースだけをカバンにつめて、新幹線に乗り込みました。
途中、何度か警察の方から電話があり、母は3日前の22日の朝、亡くなっていたことを知らされました。その3日間の間、母のたくさんの友人が変に思って、電話をしてくれたようですが、なにしろ、母は、とても元気で、76歳でも車であちこち出かけていましたから、まさか、こんなことになっていたとはだれも思わなかったにちがいありません。
25日は京都のみやこ踊りツアーに行く予定で、朝早く、友人たちと待ち合わせをしていて、時間に母が現れないのを不審に思った友人がご近所に連絡してくれたことがわかりました。

静岡までの1時間、新幹線の中では、はらはらと涙が流れてきましたが、そのとき思ったことは3月11日の震災で家族を亡くした人たちは、みんな私以上に苦しかったはずで、数万人の人たちがこの気持ちを味わったことを考えると、愕然としてしまいました。こんなつらい目に遭うのは、今の私一人でなく、こうやって、たった一人の母を突然亡くした娘たちが、みんながこの悲しみに立ち会っていると思うと、悲しいと同時に人間のすごさを感じました。
私は20年前に父を、10年前に兄をガンで亡くしていますがそのときとはまたちがう悲しみでした。突然聞かされる訃報は、ものすごく衝撃的でした。

静岡に着くと、友人たちが来てくれていましたが、家の中には、親族以外、だれも入れない状態になっていました。医師からの死因がはっきりしたあと、2階に上がり、警察の方の手によって、ふとんに寝かせてもらった母と対面しました。3日間の間、倒れたそのままの姿で床に横たわっていたため、皮膚が紫色になっている個所もありました。5日前に会ったばかりの母・・・。今はもう息もせず、冷たくなってしまっている母・・・・。母の身体に抱きついて、思い切り泣きました。最初に出てきた言葉は、 『ごめんね。』 でした。

母とはよく喧嘩をしました。特に私が年を重ねるにつれて、考えの相違が露わになって、母と娘、和気あいあいという間柄にほど遠かったのですが、私にとってはただ一人の母で、いつかこの日が来ると知ってはいたものの、こんなに突然、一人であちらの世界に行ってしまったとは。母の死で一番つらかったのは、死を知ったときと、冷たくなった母と対面したこのときでした。
母の死因は心臓発作でした。当日はいつものように朝起きて、洗濯ものを2階のベランダに干して、そのあと、私の部屋に入り、お掃除をしようとしたところに発作が起き、身につけていた携帯電話を手にとることもできず、そのままとなってしまったようでした。検死をしてくれた医師の『あまり苦しまなかったようです。』 という言葉がせめてもの救いとなりました。


*亡き母の晴れ姿
その後は、母の遺体の着替えや葬儀の打ち合わせなどで、悲しい思いをしている暇はありませんでした。それよりも生まれて初めて喪主となり、葬儀のお願いをし、お寺に連絡を入れ、と知らないことを体験していくことに精いっぱいなのと、仏教にのっとった葬儀があまりにも、大変なことに驚きました。戒名によって、お寺へのお支払の金額がちがうことも生まれて初めて知りました。外国人である伴侶は、日本の仏教の葬儀の複雑さと、いかに日本人が、死後の世界におののき、それをお金という形で解決しているのかを知り、驚いていました。私も宗教について、改めて考えました。喪主という立場になったからこそ、知ったことも多いと思います。人生で、喪主を経験する人、しない人がいると思いますが、私は自分の母の葬儀の喪主ができてよかったと思っています。

今まで時折、母が年をとってきて、ときどき母が亡くなったらどんなに取り乱してしまうだろうと懸念することがありました。特に火葬の段階になったら、その場にいられないのではないかと思っていましたが、実際には、そのときにはもう覚悟が十分できていて、母の魂はもう身体から出ていて、今ここにあるのは魂のなくなった肉体だけと思えました。そして、母の魂が宿っていた肉体に、『76年の間、ほんとうにありがとう。お疲れ様でした。これでお役目が終わりましたね。』 と穏やかな気持ちで声をかけることができました。母の死を知ってから、お通夜、葬儀まで日をおいてもらったため、数日間、母の遺体と過ごし、その境地になれたのだと思います。葬儀の朝は、着物を着つけてもらったのですが、胸がどきどきして、苦しくて、着物の着付けも進まなくなってしまいましたが、あの時に母とのお別れをしたのではないかと思います。


* 生まれて初めて喪主となった葬儀

私の家では、のこされた遺族は私ひとりだったので、友人たちに助けてもらいながら
なんとか、お通夜、葬儀など済ませることができましたが、母の訃報を聞いてから葬儀が終わるまでの約1週間は、ほんとうに大変でした。私は数年前から子宮腺筋症という症状を患っていたのですが、葬儀の前後から、生理が止まらなくなるばかりかものすごい量となり、これでもかというほどの血の塊がでていって、貧血状態にもなっていました。あとにも先にもあれほど大量の生理が出血したのは初めてだったので、あれは何だったのだろうと思います。

葬儀が終わるやいなや、また大変なことは続き、葬祭センター、お寺への支払い、位牌、お墓の戒名入れ、四十九日の法要の手配などなど、やることが山のようにあってパニックになりました。もしもお金の余裕があったのならば、あそこまでパニックになることはなかったと思うのですが、とにかく、儀式、位牌、お墓、すべて、初めてのことで、数日間、大変な悲愴感を味わいました。それに増して、私の経営の甘さがたたって、仕事上のトラブルも相次ぎ、悲しみどころではない日々が続き、とうとうそのストレスは体にやってきて、ある朝、起きて間もなく、四十肩となり、二日間、右手が上がらない状態となってしまいました。普段はヨガもやり、ある程度柔らかな身体だったのに、四十肩は突然やってくるようで、今考えてもあのときのストレスは相当なものだったようです。夜もうなされてよく眠れず、朝起きても頭がズキズキする日が数日続きました。
母が亡くなったことをただ悲しめたらどんなにいいだろうと思いました。1カ月の間に、いろいろなところへ支払うためのお金の用意、静岡の家の片づけ、東京から静岡への引っ越しの手配、東京の荷物の片づけ、母の荷物の整理、弔問してくれる方への接待、次から次へと起こる会社のトラブルの処理、肩の荷はもう重たすぎました。
それから、古今東西、離婚とか葬儀のときは、隠れていた事実が露わになると聞きましたが、私の家も例外ではなく、今まで知らなかった身近な人々の気持ちが露わになり、傷つきもしました。

生活は大きく変わりました。
今までは東京に住み、実家があり、お店のある静岡には週1回ぐらいのペースで来ていましたが、
亡き母のあとは悩む間もなく、東京のマンションを引き払い、静岡が生活の基盤となりました。


*生活の基盤の地となった静岡

静岡に私たちの荷物を運びいれてちょうど1カ月たちますが、その前には母の荷物が目いっぱいあって、その整理にも途方にくれてしまいました。まだまだ捨てるものはいっぱいありますが、すでにもう45リットルのゴミ袋100個以上は捨てました。
自分のものを捨てるのにも大変なのに、亡き母の洋服や生活用品などなどを捨てていくのは
それはもう気が遠くなるような作業でした。たぶん私と同じような年代の方たちの母親というのは
ものをとっておく世代の人たちなのではないかと思いますが、それにしてもその量は半端ではありませんでした。私の子供のころの洋服や着物、すべてが大事にしまわれ、家の中を占領しているのでした。あきれると同時に、形見として、差し上げられないような母の洋服などを捨てていくのは、かなり試練でした。

今回の母の死で、私は短い間に、ものすごくたくさんのことを勉強しました。
人一人亡くなるのは、考えていたよりも大変なことで、その人が亡くなったからといって、そこで
いろいろなものがなくなるわけではなく、家族がそれを引き継ぎ、数カ月、数年かけて、処理していくことになります。そこで思ったのは、人間はやはり一人では生きていくこともできないし、死んでいくこともできないということです。
それと、身にしみて思ったことは、人は自分のことだけをしていてはいけない、自分以外の人のことをする時間がなければ、一人前の人間とはいえないのではないかということです。
子供のいない私は今まで、自分の好きなように生きてきました。結婚をして、食事のしたくなど家事もしますが、それとて自分たちのためで、人のために‘時間’を割くということをあまり、やってきませんでした。19歳から東京や海外に暮らし、思い切り自分本位で自由自在に生きてきました。もろろんこれから先も好きなように生きていくつもりですが、これから先は、人のためにも時間がある生活をしようと心に決めました。ということは、仕事ばかりはしていられません。

どうしてこんな思いになったかというと、母の葬儀をするにあたって、葬儀センターの担当の方といろいろなことを決めて行ったのですが、その中でお通夜、葬儀の受付をどうするかということがありました。静岡では、友人のほか、ご近所にその役をお願いするということを知ったのですが、私は実家のご近所の方とは全く面識がなく、受付をお願いするなんてとてもじゃないですが、お願いできる立場でないので、料金が高くなっても葬儀センターにお願いしようと思いました。けれども葬儀担当何十年のプロの担当の方に、こういう場合はご近所の方に甘えさせていただくのが、筋で、こうやってご近所どおし、助け合っていくということを教えてもらい、私の実家の地域の組の方、全員に助けてもらうことになりました。仕事をしている男性もその奥さんもみんなが助けてくれて、感謝の気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいで、友人や親せき関係でない、地域の助け合いの意味を知りました。

それから勉強したこと、もうひとつは、葬儀の後、お骨のある仏壇に四十九日の間、毎日食事をお供えするのがどんなにか大変かを知ったのですが、食事の内容を考えるのもお供えのことを考慮して、それから自分たちが食事をとるのもお供えをしてからと、結構お供えに振り回されていました。かなりの負担でした。忙しい生活の中でこれはどういう意味なのだろうと考えました。これをする意味はなんだろうと。
そこで思いあたったのが、人間は自分以外のだれかのことを考える時間が1日の中で必要だということでした。亡くなった母や仏壇にいるご先祖たちは実際にはお供えを食べることはしません。でもお供えや毎日、朝一番にお茶をさしあげることで、私たちは自分以外の何かに時間を捧げることを学ぶのではないでしょうか。自分の限られた時間をだれかのために使う。自分のことだけでなく、ほかの人への時間を持つ余裕が人間には必要なのだと思います。ものすごく忙しい毎日の中で、自分以外の人のことを考える時間がある人とない人では、人生のクオリティが大きくちがうのでないでしょうか。

あれから2カ月半が経ちましたが、この間、ものすごくたくさんの体験をし、住まいも変わり、今まさに人生の大転機の渦の中にいます。母の他界はとてもショックでした。でも後悔の念がないのは、私があるときを境に、母がいつかはいなくなるということを受けとめ、母とケンカすることがあったても、どんなときも後悔のないように、母に接しようと心に決めていたことです。母がある程度の年になったときには、母のわがままにも目をつぶり、できる限りのことをしてきました。母と心からコミュニケーションができた時間があまりなかったことは残念ではありますが、いくら母と娘でも意見が合わないというのはしょうがないことだと思います。子供の頃から海外にあこがれ、日本を出てたくさんの冒険をしたいと思っていた私と、平凡が一番と思っていた母とはいくら話しても平行線をたどるばかりでした。

母が思っていたよりもずっと早く、他界してしまったことは、もちろん悲しいですが、私にとって一番の心配ごとがなくなった今、ある意味、自由になり、精神的にまた強くなりました。今日、これを書いていく中で、母のことを思いだし、静かにたくさんの涙を流しました。でも悲しみに浸るのはこれを最後にしたいと思います。今後は、自分に制限を与えず、思う存分、明日死んでも後悔しないように生き、自分の役目をはたしていこうと思っています。魂を包みこんでいるこの肉体にもがんばってもらわなければなりません。

フルード貴子

月刊 貴子